日々の気づき・生活

実家ごはん|明石焼きとお墓参り

2026年1月11日

相方と実家へ行ってきました

相方と実家へ行ってきました。

こう書くと、ただの予定をこなしただけみたいですが、実家に行く日はいつも少しだけ気持ちが違います。特別な観光でもないし、気合いを入れたイベントでもない。それでも、家を出る前から「今日は実家か」と思うだけで、いつもの休日とは少し空気が変わります。

普段は東京都多摩地区の、なかなか味のある賃貸アパートで相方と暮らしています。味のある、というと聞こえはいいですが、要するに生活感がしっかりある部屋です。ピカピカの暮らしではありません。洗濯物の置き場所に悩み、冷蔵庫の中身と相談し、スーパーの値段を見て一喜一憂する、かなり現実寄りの毎日です。

そんな日常から、実家へ向かう。

距離としてはそこまで大げさな話ではないのですが、気持ちの中では少しだけ移動があります。相方と一緒に実家へ行くというのも、ひとりで行くのとはまた違います。自分の家族の中に、相方が自然にいてくれる感じ。ありがたいような、少し照れくさいような、でももうすっかり当たり前みたいな。

当たり前みたいに感じられることほど、実はありがたいのかもしれません。

実家に着くと、いつものように食卓の気配があります。自分の家では、食事の前に「何を作るか」「何を買うか」「洗い物を増やしたくないな」など、地味な計算が先に立ちます。でも実家では、もう料理の匂いがしていたり、皿が並んでいたりする。

これがありがたい。

こちらは「お邪魔します」と言いながら、心の中ではすでに食べる準備に入っています。いや、お墓参りも大切です。もちろん大切です。でも、実家ごはんへの期待も正直あります。そこは隠しても仕方ない。食欲は玄関で靴を脱ぐ前から、かなり前のめりでした。

ほたてのバター醤油、塩数の子、ポテサラ

この日の食卓には、ほたてのバター醤油、塩数の子、ポテサラ、そして明石焼きが並びました。

並んだ名前だけで、もう強いです。

ほたてのバター醤油。
塩数の子。
ポテサラ。
明石焼き。

この組み合わせ、地味に見えてかなり豪華です。派手な盛りつけでドーンというより、ひとつひとつがちゃんと嬉しい。食卓に座った瞬間、「今日は勝ったな」と思いました。何に勝ったのかは分かりません。たぶん、空腹です。

まず、ほたてのバター醤油。

バターと醤油の組み合わせは、本当にずるいです。香りだけでご飯が欲しくなるやつです。ほたての甘みと、バターのこってり感と、醤油の香ばしさ。もう、この組み合わせを考えた人に拍手を送りたい。こちらはただ食べるだけなのに、なぜか感謝の気持ちが湧いてきます。

そして塩数の子。

塩数の子は、食卓にあると妙に嬉しい存在です。主役として騒ぐ感じではないのに、箸を伸ばすとちゃんと満足感がある。あの食感と塩気が、ほかの料理の合間にちょうどいい。食べる量としては少しずつなのに、存在感はしっかりあります。

ポテサラもありがたい。

ポテサラは、簡単そうに見えて実は手間がかかる料理だと思っています。じゃがいもを用意して、茹でて、つぶして、混ぜて、味を見て、冷まして、盛りつける。頭の中で工程を並べるだけで、自分だったら途中で心が折れそうです。

我が家なら、スーパーのお惣菜コーナーに静かに向かっている可能性が高いです。

なので、実家でポテサラが出てくると、それだけでありがたい。しかも、こういう料理は家庭の味が出ます。外で食べるものとは違う、安心する感じがあります。しっかりおかずにもなるし、箸休めにもなるし、食卓のまとめ役にもなる。ポテサラ、仕事ができすぎる。

食べながら、「ああ、実家ごはんだな」と思いました。

自分たちの家で同じものを並べようと思えば、できないことはないのかもしれません。でも、実家で食べるからこその味があります。料理そのものだけではなく、皿の並び方や、会話の流れや、座っている場所まで含めての味です。

弟が作ってくれる明石焼き

そして、この日の主役は明石焼きでした。

弟が作ってくれるのですが、いつも美味しくいただいています。

この「いつも美味しくいただいています」という一文、さらっと書くと軽く見えますが、実際にはかなり感謝しています。明石焼きって、食べる側からするとふわっとしていて、出汁につけて、気づいたら口の中からいなくなる料理です。

でも、作る側はきっと大変です。

生地の加減もあるだろうし、焼くタイミングもあるだろうし、きれいに返すのも簡単ではなさそうです。こちらは完全に食べる係なので、細かいことは分かりません。分かりませんが、ひとつだけ確かなことがあります。

美味しいものは、美味しい。

明石焼きは、見た目はたこ焼きに近いのに、食べると全然違います。ソースでガツンといく感じではなく、出汁につけて、ふわっと食べる。やさしい。なのに物足りないわけではない。むしろ、そのやさしさに油断して、何個でも食べてしまいます。

これが危ない。

「あと一個だけ」と思って箸を伸ばす。出汁につける。食べる。ふわっと消える。するとまた「あと一個だけ」となる。

この「あと一個だけ」は信用してはいけません。自分の中の食欲会議では、毎回あっさり可決されます。反対意見は出ません。出てもすぐ却下されます。議長が食いしん坊なので仕方ありません。

相方も一緒に食べていました。

自分の実家で、相方と一緒に弟の作ってくれた明石焼きを食べる。文字にすると何でもないようですが、こういう時間はけっこう残ります。特別なセリフがあったわけではありません。大きな出来事が起きたわけでもありません。

でも、湯気があって、出汁があって、箸を伸ばして、みんなで食べる時間がある。

それだけで十分いい日です。

外食の楽しさとはまた違います。お店で食べる料理ももちろん好きですが、実家で作ってもらう料理には、また別のありがたさがあります。値段や見た目だけではない、空気ごと味わう感じです。

この日は、明石焼きを食べながら、かなり満たされていました。

満たされすぎて、少し食べすぎていた気もします。

でも、実家ごはんで食べすぎるのは、ある意味仕方ない。食べ物が悪い。美味しいのが悪い。こちらは被害者です。だいぶ都合のいい言い訳ですが、こういう日くらいは許してほしいところです。

実家ごはんはなぜか箸が止まらない

実家ごはんは、なぜか箸が止まりません。

普段の生活では、食べる量をなんとなく気にしたり、冷蔵庫の残りを考えたり、次の日のことを考えたりします。けれど実家の食卓では、その計算が少しゆるみます。

ほたてのバター醤油を食べる。
塩数の子をつまむ。
ポテサラに戻る。
明石焼きを出汁につける。

この流れができてしまうと、もう危険です。

味の方向がそれぞれ違うので、飽きる前に次へ行けます。バター醤油のこってり、塩数の子の塩気、ポテサラの安心感、明石焼きのふわっとした感じ。きれいに回ってしまう。食卓の上に、立派なローテーションができていました。

食べている最中は、そんなに食べている感覚がないんですよね。

特に明石焼きは出汁で食べるので、軽い気持ちでいけてしまいます。でも、あとからちゃんとお腹に来ます。ふわっとした顔をして、あとで存在感を出してくる。なかなか侮れません。

食後に少し落ち着くと、「あ、けっこう食べたな」と気づきます。

いつものことです。

食べる前は「今日はほどほどにしよう」と思っているのに、食卓に座ると忘れます。人は美味しいものの前では、だいたい自分に甘くなります。少なくとも私はそうです。

でも、この食べすぎには嫌な感じがありません。

もちろん、お腹は正直なので、少し重くなることはあります。それでも、誰かが作ってくれたものをみんなで食べて、お腹いっぱいになるというのは、やっぱり幸せなことです。

普段の暮らしでは、食事もつい作業みたいになる日があります。

「とりあえず何か食べよう」
「洗い物を少なくしたい」
「冷蔵庫のこれ、そろそろ食べないと」

そんな感じで、食事が生活の段取りに飲み込まれることも多いです。だからこそ、実家でちゃんと並んだ料理を食べると、少し気持ちがほどけます。

ありがたいなあと思いながら、また一口食べる。

そして食べすぎる。

この流れまで含めて、実家ごはんなのだと思います。

食後はトランプ大会

食べた後は、昨年同様にトランプ大会になりました。

これがまた、地味に盛り上がります。

実家でごはんを食べて、そのあとトランプをする。字面だけ見ると平和そのものです。派手なイベントではないし、写真を撮ってもそこまで映える感じではありません。でも、こういう時間がけっこう楽しい。

トランプって不思議です。

カードを配って、手札を見て、出すだけ。道具としてはとてもシンプルなのに、始まると妙に熱くなります。最初は「軽くやろうか」くらいの空気なのに、勝ち負けが見えてくると、だんだん真剣になります。

別に賞品があるわけでもない。
負けたから何かを失うわけでもない。
それなのに、負けると普通に悔しい。

この感情、何なんでしょう。

この日は、相方が二勝、私は一勝で終わりました。

はい。相方の勝ちです。

一応、私も一勝しています。そこは強めに書いておきます。全敗ではありません。一勝は一勝です。小さな灯火を守るような気持ちで、自分の勝ちを大切にしたいと思います。

ただ、結果だけ見れば相方のほうが勝っています。

こういうとき、私はすぐ言い訳を探します。

食べすぎて集中力が落ちていた。
明石焼きの出汁で心がゆるんでいた。
ほたてのバター醤油の余韻が強すぎた。
ポテサラの安心感に包まれすぎた。

どれも勝負の理由としては弱いです。

でも、負けた側には負けた側の事情があります。事情というより、ただの言い訳です。分かっています。分かっていますが、言わせてほしい。

相方は二勝して、私は一勝。

この結果は、しばらく心に残りそうです。大げさな話ではないのですが、こういう小さな勝ち負けって、妙に引っかかります。悔しいけれど、楽しい。楽しいけれど、次は勝ちたい。

相方と一緒にカードを囲む時間は、なんだかんだでいいものです。

普段の暮らしでは、予定や家事や買い物の話が多くなります。今日何食べるか、何を買うか、明日はどうするか。そういう会話も大切ですが、トランプみたいにただ遊ぶ時間は、また違う良さがあります。

勝って笑ったり、負けて少し悔しがったり、どうでもいいことで軽く盛り上がったり。

こういう時間が、夫婦の日常の中には必要なのかもしれません。

まあ、必要とか言いながら、次は勝ちにいきますけど。

お墓参りへ向かう時間

トランプ大会のあとは、お墓参りにも行ってきました。

車で三十分ぐらいです。

食べて、遊んで、そのあとお墓参りへ向かう。こう書くと少し不思議な流れですが、実際には自然な一日でした。

車に乗って移動していると、さっきまでのにぎやかな感じから、少しずつ気持ちが切り替わっていきます。三十分ぐらいの道のりは、近すぎず遠すぎず、ぼんやり考えごとをするにはちょうどいい時間です。

窓の外を眺めながら、さっき食べた明石焼きのことを思い出したり、トランプの負けを地味に反省したりします。

反省するところ、そこなのか。

でも、そういう小さなことを考えながら移動しているうちに、お墓参りの空気になっていきます。

お墓参りに行くと、毎回、何か特別な言葉を用意しているわけではありません。立派な報告があるわけでもないし、「こんなに順調です」と胸を張れる毎日でもありません。

むしろ日々はかなり地味です。

相方と暮らして、仕事をして、食事を考えて、洗濯をして、買い物をして、たまに外食して、たまに食べすぎて、また反省する。ブログを書こうと思っても、手が止まる日もあります。やる気はあるのに、気づけば別のことをしている日もあります。

自由人への道というブログ名を掲げていながら、現実はかなり生活に引っ張られています。

自由というより、冷蔵庫の残り物と洗濯物に支配されています。

それでも、お墓の前に立つと、少しだけ気持ちが静かになります。

何かを大きく変えられるわけではありません。でも、「また来ました」と思うだけで、今の自分の場所を確認できる気がします。

お墓参りは、派手な出来事ではありません。

写真映えもしないし、誰かに話して盛り上がるような話でもありません。でも、行くと心の中が少し整います。整うと言っても、急に立派な人になるわけではないです。帰ったら普通にお腹は空きますし、眠くもなります。

それでも、少し立ち止まる時間になります。

まだ始まったばかりだけど、まあ進む

今年一年は、まだ始まったばかりです。

始まったばかりの時期は、「がんばろう」と思いやすいです。気持ちだけは前向きになります。ただ、気持ちだけで全部うまくいくなら、今ごろ我が家はもっと整った暮らしをしているはずです。

現実は、そう簡単ではありません。

やる気があっても、疲れる日は疲れます。
前向きなことを考えていても、食べすぎる日は食べすぎます。
きちんと暮らしたいと思っていても、部屋はすぐ生活感でいっぱいになります。

でも、それで全部だめというわけでもない。

お墓参りをして、今年一年がんばります、と思いました。

ただ、その「がんばります」は、気合いを入れて完璧にやるというより、「まあ、転びながらでも進むか」くらいの感じです。そのくらいが今の生活には合っている気がします。

あまり立派なことを言いすぎると、自分で自分に追いつけなくなります。

毎日きれいに暮らす。
毎日きちんと積み上げる。
毎日無駄なく動く。

言葉だけなら気持ちいいですが、現実の私はそこまでできません。洗い物を見てため息をつく日もあるし、ブログを書こうと思って別のことをしてしまう日もあります。相方と暮らしているからこそ、ちゃんとしたい気持ちもありますが、ちゃんとしきれない自分もいます。

それでも、実家に行って、料理をいただいて、トランプをして、お墓参りをする。

そういう一日を過ごすと、また少し前へ進もうと思えます。

すごく感動的な何かがあったわけではありません。泣ける話でもありません。ただ、明石焼きが美味しくて、相方がトランプで二勝して、私は一勝して、お墓参りに行った。

それだけです。

でも、その「それだけ」を残しておきたい。

大きな変化がない日も、ちゃんと一日です。むしろ、こういう日のほうがあとで読み返したときに、じんわり来るのかもしれません。

実家ごはんと夫婦の時間

実家でごはんを食べる時間は、相方との時間でもありました。

自分の実家に相方と行くというのは、もう何度も経験していることでも、毎回少し感じるものがあります。家族の中に相方がいて、一緒に食卓を囲んで、一緒にトランプをして、一緒にお墓参りに行く。

それが自然にできていることは、ありがたいことです。

相方が二勝して、私は一勝。

この結果だけ見れば、ただのトランプ大会です。でも、そこにある空気は、夫婦の生活の延長でもあります。勝った負けたで少し盛り上がり、ちょっと悔しがり、でも最後は笑って終わる。

そんな小さなやり取りが、日々の暮らしの中にあると、なんとなく救われます。

もちろん、毎日そんなに穏やかできれいなわけではありません。

普通に疲れる日もあるし、会話が少ない日もあるし、なんとなく余裕がない日もあります。古い賃貸アパートの中で、洗濯物と買い物袋と日々のあれこれに囲まれていると、暮らしはけっこう現実的です。

でも、実家で一緒に明石焼きを食べている相方を見ると、こういう時間を持ててよかったなと思います。

夫婦生活というと、もっと大きな話になりがちですが、実際はこういう小さな場面の積み重ねです。

どこかへ行く。
一緒に食べる。
一緒に遊ぶ。
移動する。
同じ場にいる。

それだけで、ちゃんと記憶になります。

この日は、おしゃれなカフェでの優雅な時間でもなく、特別な旅行でもありません。でも、自分にとっては残しておきたい日でした。

相方と実家へ行き、弟の明石焼きを食べ、トランプで負け越し、お墓参りをした日。

こう書くと、なかなかいい日です。

負け越しだけ余計ですが、それも含めていい日です。

まとめ

相方と実家へ行き、ほたてのバター醤油、塩数の子、ポテサラ、そして弟が作ってくれた明石焼きをいただきました。

どれも美味しくて、気づけばしっかり食べていました。実家ごはんは、どうしても箸が進みます。明石焼きは出汁でふわっと食べられるので、軽い気持ちで食べていたら、あとからちゃんとお腹に来ました。あのやさしい顔をした食べ物、なかなか油断できません。

食後は昨年同様にトランプ大会。

相方は二勝、私は一勝でした。

一勝しているので、完全に負けたわけではありません。ここはしつこく主張しておきたいところです。ただ、結果としては相方のほうが勝っています。次はもう少しがんばりたいです。明石焼きの余韻に負けない集中力を身につけたいものです。

その後は、車で三十分ぐらいかけてお墓参りへ行きました。

今年一年はまだ始まったばかり。大げさな抱負を語れるほど整った自分ではありませんが、また日々の生活をがんばろうと思いました。

相方と暮らし、実家へ行き、料理をいただき、少し遊んで、お墓参りをする。

派手ではないけれど、こういう日をちゃんと残しておきたいです。

自由人への道は、今日もかなり生活感まみれです。自由というより、食欲と洗濯物に振り回されています。

でもまあ、明石焼きが美味しかったのでよし。

次のトランプ大会では、せめて相方と同じくらい勝ちたいです。

-日々の気づき・生活