ふと命の重みについて考えた
ふと、命について考えることがありました。
きっかけは、ニュースで見た自死者数の話でした。
こういう数字を見るたびに、胸の奥が少しざわつきます。
数字だけで見ると、どこか現実味がありません。
1万何千人。
そう聞くと、あまりに大きすぎて、頭がうまく受け止められないんですよね。
でも、それを1日単位で考えてみると、急に重くなります。
毎日、何十人もの人が、自分の命を終わらせている。
そう考えると、これはもう「数字」では済まない話です。
厚生労働省は、2025年の年間自殺者数について暫定値で19,097人と公表していました。その後、警察庁の令和7年中における自殺の状況では、2025年の自殺者数は19,188人とされています。前年より減少しているとはいえ、それでもこれだけ多くの命が失われているという事実は、軽く流せるものではありません。
もちろん、自死について軽々しく語るつもりはありません。
そこには、その人にしか分からない苦しさや、言葉にならない背景があったはずです。
外から見て、
「命は大事だよ」
と簡単に言えるほど、単純な話ではないと思っています。
それでも、命というものは、何ものにも代えがたいものです。
人間の命はもちろん。
動物の命も。
魚の命も。
虫の命も。
植物の命も。
どんな生き物にも、それぞれの命がある。
そんな当たり前のことを、最近あまり考えていなかったなと思いました。
そして、そこから食事のことを考えたんです。
自分たちは毎日、何かを食べて生きています。
肉を食べる。
魚を食べる。
卵を食べる。
野菜を食べる。
米を食べる。
それは当たり前の生活です。
でも、よく考えると、その当たり前は、ほかの命の上に成り立っています。
これ、普段は忘れがちです。
忘れたまま、普通に箸を持っています。
お腹が空いた。
何を食べよう。
今日は安い肉にしよう。
魚は高いな。
野菜も高いな。
卵、また値上がりしてないか。
そんなことを考えながらスーパーを歩いている。
生活感がすごい。
でも、その食材は、全部どこかで命だったものです。
そう考えると、食事というのは、かなり重い行為でもあるんですよね。
肉を食べるとき、その命を考えているか
肉を食べるとき、その命に感謝しているか。
そう聞かれると、正直、自信がありません。
いただきますとは言います。
でも毎回、深く命のことまで考えているかと言われると、そこまではできていない気がします。
焼肉を前にしたら、たぶんまず思うのは、
「うまそう」
です。
命の重みより、タレの香りが先に来ます。
人間、正直です。
唐揚げを見れば、
「これは白米が進むやつだ」
と思います。
生姜焼きを見れば、
「マヨネーズいるかな」
と考えます。
この時点で、かなり俗っぽい。
命の尊さを語る人間の脳内に、普通にマヨネーズが出てきます。
でも、それが人間なのかもしれません。
食べるということは、生きることです。
そして生きるということは、きれいごとだけではできません。
私たちは、動物の命をいただいて生きています。
牛。
豚。
鶏。
スーパーに並ぶときには、もう「肉」として見ています。
牛肉。
豚肉。
鶏肉。
パックに入って、値段が貼られて、100グラムいくらで売られている。
そこにはもう、命だったものという実感は薄れています。
むしろ見ないようにしているのかもしれません。
それを毎回リアルに考えすぎると、食べること自体が苦しくなる。
だから私たちは、食材として受け取っている。
でも、だからといって、その命を完全に忘れていいわけではない気がするんです。
肉を食べることが悪いと言いたいわけではありません。
自分も食べます。
普通に食べます。
むしろ好きです。
ハンバーグも好きですし、焼き鳥も好きですし、豚汁も好きです。
書いていたらお腹が空いてきました。
このタイミングでお腹が空く自分が少し情けない。
でも、食べるならせめて、そこに命があったことを忘れないようにしたい。
毎回完璧に感謝できなくてもいい。
でも、ふとした瞬間に思い出すくらいの感覚は持っていたい。
そう思います。
魚を食べるとき、その命を考えているか
魚も同じです。
魚は、肉よりもさらに「命だった」という感覚が薄れやすい気がします。
切り身で売られているからです。
鮭の切り身。
サバの切り身。
ブリの切り身。
刺身のパック。
あまりにも食卓に馴染みすぎていて、そこに泳いでいた命があったことを忘れてしまいます。
魚は海や川で泳いでいました。
水の中で生きていました。
それが捕られ、運ばれ、さばかれ、店に並び、食卓に来る。
考えてみると、かなり長い道のりです。
でも食べるときの自分は、
「骨が多いな」
とか、
「これはご飯に合うな」
とか、
「醤油、かけすぎた」
とか、そのくらいのことしか考えていません。
魚に申し訳ない。
いや、魚に直接謝るのも変かもしれませんが。
でも、魚の命もまた、私たちの生活を支えてくれています。
寿司を食べるときもそうです。
刺身を食べるときもそうです。
焼き魚を食べるときもそうです。
スーパーで値引きシールが貼られた刺身を見て、
「お、ラッキー」
と思う自分がいます。
それは生活です。
財布事情もあります。
でも、その「ラッキー」の向こう側にも命がある。
そこまで考えると、食べ物を粗末にしにくくなります。
もちろん、現実には賞味期限を切らしてしまうこともあります。
冷蔵庫の奥から、いつ買ったか分からないものが出てくることもあります。
あれは本当に気まずい。
誰に対して気まずいのか分からないけれど、かなり気まずい。
「すみません、存在を忘れていました」
という気持ちになる。
食べ物を無駄にしないというのは、節約でもあります。
でもそれ以上に、命を無駄にしないということでもあるんですよね。
野菜もちゃんと生きている
命というと、どうしても動物や魚を思い浮かべます。
でも、もっと深く考えると、植物も同じです。
野菜も生きています。
米も生き物からできています。
果物も、木も、草も、花も。
植物にも命があります。
春に芽吹き、夏に葉を広げ、秋に色づき、冬に静かに眠る。
同じ木を一年見ていると、毎日少しずつ表情が違うことに気づきます。
春にはやわらかい緑が出てきます。
夏には葉が濃くなり、日差しを受けています。
秋には色づき、落ち葉が増えていきます。
冬には枝だけになって、静かに立っています。
でも枯れているわけではない。
次の春に向けて、ちゃんと生きている。
植物はしゃべりません。
鳴き声も出しません。
こちらを見つめてくるわけでもありません。
だから、命として感じにくいところがあります。
でも、ちゃんと生きています。
野菜もそうです。
畑で育つ。
根を張る。
葉を伸ばす。
実をつける。
それを私たちは食べています。
トマト。
キャベツ。
大根。
にんじん。
じゃがいも。
米。
全部、命のかたちです。
そう考えると、食卓に並ぶものすべてが“命”なんだと思います。
スーパーでは値札ばかり見てしまいます。
「このキャベツ高いな」
「大根、今日は安いな」
「もやしは庶民の味方だな」
そんなことばかり考えています。
もやしには何度も助けられています。
本当に頭が上がりません。
もやし様です。
でも、そのもやしだって生き物です。
安いから軽く見ていいわけではありません。
安くて、早く炒められて、味噌汁にも入れられる。
しかも命。
すごい存在です。
「いただきます」はただの挨拶ではない
私たちは食事の前に「いただきます」と言います。
子どもの頃から、当たり前のように言ってきました。
でも、その意味をどこまで考えていたかというと、正直あやしいです。
食事の合図。
マナー。
習慣。
とりあえず言うもの。
そんな感じだったかもしれません。
でも、「いただきます」という言葉には、命をいただくという意味があります。
食べ物を作ってくれた人への感謝。
料理をしてくれた人への感謝。
運んでくれた人への感謝。
そして、命そのものへの感謝。
たった一言ですが、かなり重い言葉です。
最近、その重みをあまり考えていなかったなと思いました。
自分も毎日食事をします。
お腹が空いたから食べる。
時間だから食べる。
安かったから買う。
疲れているから簡単に済ませる。
そんな日々です。
特別なごちそうでなくても、食事は食事です。
即席ラーメンでも、納豆ご飯でも、スーパーの惣菜でも、食パンでも。
全部、誰かの手と、何かの命を通って、自分の前に来ています。
そう思うと、食事の前にほんの数秒でも立ち止まることは大事なのかもしれません。
もちろん、毎回しみじみと手を合わせて、涙を浮かべる必要はないと思います。
朝の忙しい時間にそれをやっていたら、遅刻します。
でも、心のどこかで、
「いただきます」
という言葉を雑にしない。
それくらいならできる気がします。
生活は他者の命で成り立っている
自分たちの生活は、他者の命で成り立っています。
これは少し重い言い方ですが、事実だと思います。
食べ物だけではありません。
服も、家も、道具も、生活のあらゆるものが、自然や生き物、そして多くの人の働きによって支えられています。
でも、特に食事は分かりやすい。
直接、命を体の中に入れているからです。
食べることで、自分の体が動く。
肉や魚や野菜や米が、自分の体の一部になる。
考えると、少し不思議です。
昨日食べたものが、今日の自分を動かしている。
昨日の味噌汁が、今日の自分の一部になっている。
そう思うと、味噌汁も急に立派に見えてきます。
いや、味噌汁はもともと立派です。
特に寒い日の味噌汁は、ほぼ救済です。
でも、そんな日常の食事が、実は命の受け渡しで成り立っている。
これは忘れたくないことです。
弱肉強食と言えば、それまでかもしれません。
生き物は、他の命を食べて生きている。
自然界では当たり前のことです。
でも、その一言で終わらせたくはありません。
「そういうものだから」
で済ませるのではなく、
「そういうものだからこそ、忘れない」
という感覚を持ちたい。
自分が食べるものに、少しだけ感謝する。
残さず食べる。
必要以上に買いすぎない。
食べ物を粗末にしない。
どれも大げさなことではありません。
でも、日々の生活では案外忘れます。
冷蔵庫の奥に眠る食材。
買ったことすら忘れられた野菜。
賞味期限に追われる豆腐。
あれを見るたびに、
「自分はまだまだだな」
と思います。
命を学ぶ授業について考えた
以前、小学校で豚や鶏を育て、最後にそれを食べるという授業があるとテレビで見たことがあります。
かなり考えさせられる内容でした。
賛否はあると思います。
「命の大切さを学べる」という意見もあるでしょう。
一方で、
「子どもには重すぎる」
「残酷ではないか」
「心に傷が残るのではないか」
という意見もあると思います。
どちらの気持ちも分かります。
自分も簡単には答えを出せません。
もし自分に子どもがいたら、どう考えるだろう。
正直、すぐには分かりません。
「ぜひ経験させたい」とも簡単には言えないし、
「絶対にやめるべき」とも言い切れない。
命を学ぶということは、それくらい重いことなんだと思います。
普段、私たちは肉や魚を食べています。
でも、それが生きていた姿を見る機会はほとんどありません。
スーパーでパックに入っている状態から始まる。
だから、命をいただいている実感が薄くなる。
その意味では、自分たちの生活が他者の命によって支えられていると知ることは、大切な学びなのだと思います。
ただ、それをどう伝えるかは難しい。
命は教材ではない。
でも、命から学ぶことはある。
このあたりは、簡単に白黒つけられないところです。
だからこそ、大人も考え続ける必要があるのかもしれません。
感謝して食べることはきれいごとなのか
「食べ物に感謝しましょう」
そう書くと、少しきれいごとのように聞こえるかもしれません。
分かります。
忙しい毎日の中で、毎食毎食、命のことまで深く考えるのは大変です。
仕事で疲れて帰ってきて、空腹で、眠くて、明日のことも考えなければいけない。
そんなときに、食卓の前で壮大な生命哲学を始める余裕なんて、正直ありません。
自分もそうです。
カップ麺にお湯を注いで、3分待っている間に、
「命とは何か」
なんて毎回考えていたら、麺がのびます。
いや、たまにはそれもいいかもしれませんが。
でも、感謝というのは、立派な言葉を並べることだけではないと思います。
残さず食べる。
食べ物を無駄にしない。
作ってくれた人に「ありがとう」と言う。
買いすぎない。
冷蔵庫の中をたまに確認する。
いただきますをちゃんと言う。
そのくらいでいいのではないでしょうか。
完璧な感謝なんて、たぶん難しいです。
でも、忘れない努力ならできる。
自分も完璧ではありません。
たまに食べ過ぎます。
たまに買いすぎます。
たまに賞味期限を見て焦ります。
そして、たまに冷蔵庫の奥から発見された何かに無言で謝ります。
それでも、命をいただいているという感覚だけは、少しでも持っていたいと思います。
食事は当たり前だけど当たり前ではない
毎日食事ができることは、当たり前のようで、当たり前ではありません。
お腹が空いたら何かを食べる。
コンビニに行けば食べ物がある。
スーパーに行けば野菜も肉も魚もある。
外食すれば温かい料理が出てくる。
この便利さに慣れすぎているのかもしれません。
本当は、その裏にはたくさんの人の働きがあります。
育てる人。
捕る人。
運ぶ人。
売る人。
料理する人。
そして、その前には命があります。
自分が今日食べたものも、誰かが関わってくれたものです。
そう考えると、食事はかなり大きなつながりの中にあります。
普段の自分は、そこまで考えていません。
「今日の夕飯どうしよう」
で頭がいっぱいです。
冷蔵庫に何があるか。
財布にいくらあるか。
作る気力があるか。
洗い物を増やしたくないか。
かなり現実的です。
でも、その現実的な食事の中にも、命の重みはあります。
高級料理だけがありがたいわけではありません。
安い食事にも命があります。
即席ラーメンにも、野菜炒めにも、納豆ご飯にも、味噌汁にも。
日常のご飯こそ、命をいただく場面です。
だからこそ、派手な感動ではなく、日々の中で思い出すことが大切なのかもしれません。
まとめ
ふと、命について考えました。
ニュースで多くの人が自ら命を絶っていると知ると、数字だけではなく、その一人ひとりに人生があったことを思わずにはいられません。
命は、人間にとって何ものにも代えがたいものです。
そしてそれは、人間だけではありません。
動物にも、魚にも、昆虫にも、植物にも、それぞれの命があります。
私たちは毎日、食事をしています。
肉を食べる。
魚を食べる。
野菜を食べる。
米を食べる。
それは当たり前の生活です。
でも、その食事は他者の命の上に成り立っています。
肉も魚も野菜も、食卓に並ぶ前は命でした。
「いただきます」という言葉は、ただの食事前の挨拶ではありません。
命をいただくという意味が込められた言葉です。
最近、自分はその重みをあまり考えていなかったなと思いました。
もちろん、毎回完璧に感謝するのは難しいです。
忙しい日もあります。
疲れている日もあります。
お腹が空きすぎて、とにかく早く食べたい日もあります。
でも、食事の前にほんの数秒だけでもいい。
「いただきます」
と言うときに、その向こうにある命を少しだけ思い出したい。
食べ物を粗末にしない。
残さず食べる。
買いすぎない。
作ってくれた人に感謝する。
そういう小さなことを、忘れずにいたいと思います。
弱肉強食と言えば、それまでかもしれません。
でも、その一言で済ませたくはありません。
自分たちは、ほかの命をいただいて生きています。
だからこそ、せめて感謝して食べたい。
完璧な人間にはなれません。
今日もスーパーで値引きシールを見たら、たぶん普通に反応します。
もやしの安さに助けられます。
カップ麺も食べます。
それでも、食卓の前でほんの少しだけ立ち止まることはできるはずです。
命をいただいて、生きている。
そのことを忘れないようにしたい。
そんなことを、ふと思いました。